Blogブログ
74回原爆忌
こんにちはー。今日は8月6日、、、そう
我が広島県に74年前、原爆が落とされた日です。74年前の8時15分。
今年、77歳の母は、当時三歳だったため、記憶にはないようですが
祖父母の話しは、私も少し覚えてます。私の祖父は、身長が低かったらしく
徴兵されなかったようですが、当時は広島市内で水を配り歩くのに、死体の上を歩くしかなかった、と言ってました。
多くの人間の形をしていない人間が、水をくれ~、水をくれ~っと言ってきたそうで
そんな話を聞いたのも、もうかれこれ30年以上前ですかね、そんな祖父も亡くなって28年ぐらい経つのかな・・・店長の土井です。
今朝、新聞記事を読んでいても、涙が出そうになる記事がたくさん、、、その中のひとつ、紹介したいので、長くなりますが載せますね。
4人姉妹の三女。両親と家族6人、広島駅の近くに暮らしていた。 あの日の午前8時15分。長女以外の姉妹3人が在宅し、岡邊さんが学徒動員で鉄道局に出掛けようとしていたその時、ドーンという破裂音とともに体が宙に浮いた。爆心地から約1・5キロ。家は屋根ごと崩れた。 それからどれぐらいの時間がたったか。岡邊さんの耳に「好子ちゃん」という声が聞こえた。「皮膚がめくれてドロドロ。口も鼻も形が変わっていた」。母だった。 爆心地から北西160メートルにある広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)のそばで動員作業中に大やけどを負い、必死に家までたどり着いた。「お母ちゃん」と声をかけた。その後、母は意識を失った。 火の海が迫っていた。外した便所の戸板に母を乗せ、けがが軽かった岡邊さんと次女で持ち上げた。額から出血した四女とともに、飲まず食わずで遠方にある避難場所の小学校を目指した。 道路も橋の上も川の中も、焼けただれ性別も分からなくなった遺体ばかり。死んでいる母の乳房をすう赤ちゃんもいた。「助けてください」「お水ちょうだい」のうめき声が響く。 途中、目を覚ました母が「私はこのままでいい。お母ちゃんを置いて、子どもだけで早く逃げて」と言った。「何言ってんの」と返し、ただただ懸命に前に進んだ。 ようやく小学校の講堂に着き、入り口で父の名前を告げると、「今日か明日の命です。重傷の部屋です」と教えられた。 軍需物資調達商の父は、原爆ドームの隣で会議を終えた後に被爆した。頭から背中、尻までひどいやけどを負い、伏せた姿勢の父がいた。 長女も重傷の部屋にいた。屋外で上を向いた瞬間に熱線を浴び、顔や手に大やけどをした。いったんトラックに乗せられ、火葬場近くまで運ばれたが、「私はまだ息をしています」と声を絞り、小学校に移ってきたという。 家族6人のうち、父と母、長女の3人が生死の境にいた。しかし、治療薬がない。やけどが化膿し、ウジ虫がわいた。でも「赤チン」を塗るしかすべがなかった。岡邊さんは「膿がとれる」という青草を田んぼに探しにいき、やけどの上にその草を貼ってあげた。 高熱に苦しんだ父は、家族のことをうわごとで言い続け、夜には「子どもが気になる」と叫び声を上げた。終戦の日から3日後の18日、息を引き取った。 父は講堂の片隅に真っ裸で置かれていた。 岡邊さんはその体を抱きしめた。 小学校近くの一軒ずつに「このままでは火葬できません」「浴衣を下さい」と頼んで回った。重傷の母と長女は何もできず、涙を流すだけだった。 この年、広島で約14万人の命が奪われた。(中島摩子)
広島県、長崎県の被爆手帳を持ってる人は、132人だそうです。語り継ぐには、少なすぎる人数ですね。
私も広島で生まれ、広島に育っている以上は、核兵器撲滅に向けてできることはしていこうと思いますし、
子供たちにもしっかり、伝えていこうと思います。
上二人は、1学期のあゆみ、、、
字が汚すぎて、読めない的なことを言われ、もう母はいちいち字の書き方まで教えられない、、、ということで
近所で怖くて有名な書道教室に入れました。
どうみても、70歳代のおじいちゃん先生、、、相当怖いようで、この写真はその娘さん。っといっても
私ときっと同世代だと思います。が
この人は、大怒られしたみこっち(小1の長男)を慰めてくれるようで、
一回行ったら、もうやめた。っと言い出したみこっちを見て、母はおかしくて、もっと早くから入れとけばよかった、、、と思うのであります。
何はともあれ、三人の子供を育ててますが、
損得関係なしで、人のために何かできる、、、そんな人間に育ってくれれば、少々字が汚くてもいいのですが、、、っと思うのであります。